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ボロニーズの歴史

ボロニーズの歴史
 ボロニーズは、何世紀も前に、イタリア、ボローニャで生み出されました。その地では、絵画や文献によれば、11世紀12世紀といった早くから、既にボロニーズは高く評価されていました。ボロニーズの歴史のある部分は、時代の闇の中に失われてしまいました。しばしば、マルチーズと混同されたからであり、それは、その遠い先祖が同じ二つの犬種が、アリストテレスによって、ラテン語でCanes meltoneseのひとつの名称で表されていることもあってです。ボロニーズは、10の犬種を含むビションのグループに属しています。そこには、よりよく知られている、ビションフリーゼ、マルチーズ、ローチェン、あまり知られていない、ボロニーズ、ハバニーズ、コットンデトゥラーなどがあり、今では、これらのすべての犬種を我が国で見ることが出来ます。今日、ボロニーズはその母国においてさえも、希少な犬です。

 ルネッサンスにおいて、ボロニーズの子犬は、非常に価値のある特別な贈り物とされ、貴族や身分の高い人々に好まれました。コシモ・ディ・メディチは、ベルギーの貴族への贈り物として八匹のボロニーズをブリュッセルに送りました。それ以来、ベルギーのボロニーズのブリーでぃんぐは、一級の結果を表しており、1981年ワールドチャンピオンであるElianeがよい例です。

 エステ侯爵は、スペイン王フィリップ十一世に二匹のボロニーズの子犬を献げたと言われます。その返事の手紙に王は、「この二匹の子犬はヨーロッパの人々ができる中でも、最高の献げ物のひとつである」と記し、絶賛しています。また、前国王フンベルトは、婚約者であるベルギー王女のマリー・ジョーの誕生日に二匹の子犬をプレゼントしたそうです。他の著名な飼い主と言えば、ロシアのキャサリン・ザ・グレート、フランスのポンパドゥール夫人、そしてオーストリアの女帝マリア・テレジアなどがいます。彼女は死ぬまで自分の犬をたいそう愛し、保存し、剥製にするために、有名な剥製職人に命じて仕事をさせたそうです。常に、一緒にいたかったのでしょう。その犬の剥製は、今日でもウィーンの自然博物館で見ることができます。時がたち、このような貴族の時代が過ぎ去っていくと、ボロニーズは町の犬となり、絶滅に近づいていったのです。

 ボロニーズは、十七世紀フランドルの職人のタペストリーにも、見ることが出来ます。ゴンザガ・フレデリック侯爵は、ボロニーズをかわいがっているところを、1477年生まれのヴェネツィアの画家であるティティアンに描いてもらったそうです。ボロニーズの姿は、ゴヤやボッシュ、ワトーの絵画にも見られます。

 ボロニーズは、1970年代はじめに、イタリアとベルギーで復活された。Senora Adele Walchaertzというイタリア、マサロアに住んでいたベルギー人の女性は、1973年の誕生日に夫からレモン・ファミングという、それは美しいボロニーズの子犬をもらって以来、この犬種に心酔してしまいました。その後、彼女はボロニーズについて勉強し、感情が愛したボロニーズの繁殖をし、この犬種を絶やしてはならず、由緒ある犬種であることが認められるようにと決心したのです。彼女は、今日まで、レオン・フラミンゴという名前を、犬舎の名前とし続けています。

 イタリアのジャン・フランコ・ジャンネリは、ボロニーズを愛した人ですが、この犬種のかつての人気を再興した人物です。かれはボロニーズを溺愛し、ボロニーズに献げるべくll Bolognese e ll Bichon a poil Frieseという一冊の本を記しました。この本の中で、ボロニーズとビションフリーゼが違うと言うことが指し示されました。彼のサンマリノボロニーズは今日に至るまで、世界中で有名です。

 ベルギーの女性であるゲルダ・ヴァンスティーンキスト夫人は、ボロニーズという犬種を復活させ、ベルギーの近隣諸国で過去にあったボロニーズの反映を、再び興した人物です。彼女は、それはたくさんのボロニーズを世に示し、最高の犬種だと評価されるように、かつてのエリアンのような世界チャンピオンを生み出そうという運動を開始しました。エリアンは、後に世界チャンピオンになる娘アイリス・デ・チャポネイと、ヨーロッパチャンピオンになる息子ハッピー・デ・チャポイを生みました。この血統は、ベルギーにおいて、今も彼女のいとこのものであるヴァン・ヘット・ヴォゲルパーク犬舎で受け継がれています。現在、ヴァンスティーンキスト夫人自身は、一線をひかれてしまったそうですが、彼女の残したこの血統は、今日、ヨーロッパのドッグショーにおいて、華々しい成功を収めています。

 現在、ロシアとドイツには、知られているだけで、約33のボロニーズ犬舎があります。その中で特に有名なのは、ドイツのAjaccioという犬舎のエリカ・ファソットという方です。彼女は、なんと二十年にわたってボロニーズのブリーディングで成功し続けています。また、彼女の娘であるサンドラ・ブロックは、自身も犬舎を持ちながら、、母の歩みを支えてきました。彼女たちのブリーディングは、前述したベルギーのレオン・ヴィテンヒュースの血統と交配し、今では、フライスラントにある彼女のライレンホフ犬舎から、独自の美しい姿と気質をもったチャンピオンを提供しています。

 フランスにクリーゲル夫人という女性がいました。彼女はイタリアのアディール・ワルシャーシ氏のレオン・フィアミンゴ犬舎から、ボロニーズを、初めてフランスに輸入した人です。彼女が輸入したうち、何頭かはNotre Dame de la Source犬舎のM.ウィッソック氏に譲られました。そして、彼らは、フランスリールの近くの家で、今日に至るまでブリーディングを続けています。

 1988年、Voila犬舎のファーニラ・グラムストランドは、初めて、ボロニーズをスウェーデンに輸入した人です。この犬は、デンマークからでジャビアス・ボーブランクアエキヴィアンという雌犬です。彼女は、他のフランスから来た女性Elsa de Kalfrety(後にドイツの雄Fabrice V Weiben Kindertraumと交配し、北欧チャンピオンVoila Amore Mioを生み出した。)と共に1991年に至るまでこの輸入を続けました。今日では、グラムストランド夫人は、ハバニーズのブリーディングで大きな成功を収め、ボロニーズのブリーディングは同じスウェーデンのPuzinuz犬舎のLaila Bergmannにバトンタッチしている。
 
 さて、ちょうど同じ頃に、イギリスにもボロニーズが輸入されました。また、Berdot犬舎のドロシーとバートの手によって、アメリカに最初のボロニーズがもたらされたのも、このころです。これをきっかけに、ボロニーズクラブ・オブ・アメリカの設立が始められました。

 19世紀、1988年9月、イギリスのケンネルクラブで、初めてのボロニーズの子犬が、Mr.J..W.Ogilvieによって登録がなされました。彼は、休暇でヨーロッパに行った時に、ボロニーズを見て、イギリスに輸入することを決意しました。そこで、彼は、前述のイタリアDel Leone Fiamming犬舎から二頭の子犬をイギリスに輸入しました。それから自らの犬舎であるCamboalto犬舎を作り、八頭の子犬を育て上げましたが、それ以来、彼の犬舎は子犬を出していません。

 Shiarita犬舎のLiz Stannard夫人は、Mr.Ogilibieから二頭のボロニーズの雌を買いました。また1990年にはデンマークのJabir's Bo-Blanc犬舎からジャンとビャーテという二頭の雌犬を輸入しました。この犬たちは、彼女の犬舎の運営資金を充実させるのに役立ったと言います。1993年イギリス・ダーリントン・チャンピオンシップショーにおいて、七頭の見事なボロニーズが大きな成功を収め、入賞しました。この成功については、Liz Stannaradや、KashimaのJanice Evendenからも注目を浴び、それに続いてGina and Martin Taaylor(Fabio Barabara Andrews Chinensis)やMargaret Lambton(Villanova)親子も注目しました。彼らのほとんどが、ボロニーズのブリーディングの第一人者であり、イギリスにボロニーズを提供している人たちでした。このイギリスでの、かつてのボロニーズについての運動や宣伝が、イギリスの人々にこの犬種への興味と知識を伝えていったのです。

 以上の、最初のボロニーズとして記したものと同時に、イギリスにおいて最初のボロニーズブリーダーとされたのが、Tammylan犬舎のベネルソン夫妻でした。彼らは、1991年に一組のボロニーズを輸入しました。また、フランスのノートルダム犬舎から雌の子犬を、リーレンホフ犬舎からオランダの雄犬を、そして、翌年、Van Het Vogelpark犬舎から二頭のベルギーの雌犬を輸入しました。

 1996年6月9日に、最初のボロニーズ国際会議が、新たに形成された、ブリティッシュ・ボロニーズクラブによって開催されました。

 バーバラ・ベネルソン夫人は、ボロニーズの飼育から退くにあたって、1997年にKashimaのEvadenに三頭の雌をゆだね、キューバに移住しました。

 イギリスのボロニーズは2001年に輸入登録を行い、すべてのショーに自身のクラスを示せるようになり、2002年になって、一九頭がショーに出場を果たしました。

 それ以来、たとえばPlatoino Iridio犬舎のF Bonnannなどのイタリアの犬舎からのボロニーズの輸入依頼が出てきました。ボロニーズを盛んにするため、何年も情熱的に働いていたマリアルイザフリッジのラダマンティーノ・ボロニーズが、それらの飼育者に高く評価されました。Kashimaは、最初の一組を彼女から輸入しました。また、Canipelosi犬舎のグッド夫妻は、雄を、またそれ以前の2000年には彼らは Viola Delle Lame Bolognese のMr Riccardo Violaによっても輸入されています。また同様にイタリアのMr. Alberto Veronesiの犬舎や 同じくイタリアの'PeterhundのMs Giani、 'Degli ElmiのMs P Colosimo 'Chantli's'のJensens スウェーデンの'Puzzinuz'のLaila Bergmann 等に輸入されました。そしてついにはオランダのMrs H M Van Luijken の'Barratscillag' によってイギリスにも輸入がなされたのです。

 しかしなお、イギリスで、およそ五〇〇頭(2004年時点)にようやく達するという、まれな犬種であると思われます。
数年後、人々が、彼らにはとても多くの人に愛される資質があるのを確認した時、このチャーミングで知的な小さい犬は、より一般的にになっているでしょう。
愛情を込めて、毛皮を着た小さい人間のような存在としてボロニーズを記述することができるようになるでしょう。

私はブリーダー達がボロニーズを特有の毛並みがある小さくて、安定した、そして、健全で、丈夫な犬であることを保証するためにコツコツと勤勉に研磨し、高い品格の達成を責任をもって目指しながら、彼らを飼育し続けることを心から願っています。
そのとことによって、世界中のすべての人々にはには、現在と将来ボロニーズを楽しんで、愛す機会があるでしょう。                                         (Kashima犬舎ホームページより)


●雑学ボロニーズの歴史

以前日記に書いた「雑学ボロニーズの歴史」をここにご紹介します。

1.最近手に入れたワンコの本で、ボロニーズのルーツについて調べてみました。ボロニーズは、フリーゼ、マルチーズ、ハバニーズと共に、ビショングループの一員ですが、この本によると、ビショングループの起源については、謎のようです。地中海周辺の地域で発達した犬種であることは確かなようです。そして、この昔からあるビショングループの中で、ボロニーズとマルチーズが最も古くからある犬種だそうです。そして、このどちらがより古いのかということは、はっきりとは言えないそうなのです。ボロニーズの名前の由来となっている、ボローニャの町と深く関わりがあるようで、昔、政治的にも経済的にも、文化的にも重要だったこの地域の有力者達によってボロニーズが広められていった、とありました。
 ボロニーズのルーツは謎に包まれていますが、こんなに古くから大切にされてきた犬種なんですね。う〜んすごい、と感心しつつ、今目の前にいるボロニーズの魅力をみなさんに知っていただくだけでなく、ボロニーズがその魅力を発揮してきた歴史についても、勉強してお伝えできたら良いな〜と思っています。
2.昨日の続きで、本のボロニーズの歴史を見ていました。Flavius Biondi(1388-1463)(ペンネームBlondus)という人が書いた文章が、ボロニーズに触れている最初の文章だそうです。ボローニャでとっても高く評価されて、とても大切にブリーディングがされていたというのです。私たちは、ボロニーズと言えば「白」と思っていますが、最初の頃は、白が好まれていたけれども、黒いボロニーズも見られた、と書いてあってビックリ!
 同時代のAlbertusという人の報告によれば、「当時のブリーダーは、子犬を得るためには、どこまででも行った。なぜならば、ボロニーズが非常に探し求められており、高価に売ることが出来たので」と言うのです。ウ〜ン、なるほど。
面白かったのは、当時も毛並みが大切にされて、良い毛並みの子犬が生まれるようにと、こんな言い伝えがあったというのです。母犬が出産するところに、牛や羊の毛をまくといいというのです。メス犬を送り出す時に、母親になるときのために、羊の皮を持たせたこともあるというのです。
 良い子犬が生まれるように、という願いを込めて、こんなこともしていたんですね。気持ちはとってもよく分かりますよね。

3.雑学ボロニーズ、第三弾。ただ、文献が日本語じゃないので、ちょっと自信ないとこあり。ご注意下さい(^^;)。
 さてさて、昔はボロニーズを飼うことが出来たのは、半端でない大金持ち。昔歴史で習ったメディチ家で大切にされていたそうです。このような権力を持った人々の運命にボロニーズも巻き込まれたんですね。ハッチンソンの『犬百科事典』によれば、1400年代後半にボローニャで力を持っていたBentivoglio家が、後にボローニャを追放された時、ボロニーズを連れてマルタに移ったそうです。そこで地元の、もっと小さな犬と交配をして、マルチーズが生み出されたという説もあるのです(マルチーズの起源についてもいろいろな説がありますが...)。さらに、そこから南アメリカ(アルゼンチン)に移住した人々が、華奢でより大きな犬種、Jessamineという犬種を生み出し、この犬種は当時多くの人に愛されたそうです。しかし、その犬種は、今は絶滅してしまったというのです。
 多くの人々に愛された、ボロニーズとも深い結びつきがあった、ひとつの犬種が消えてしまうなんて。ボロニーズが絶対にそんなことにならないように、みんなで大切にできたら良いですね。

4.雑学ボロニーズの歴史、第4弾。イタリアでのボロニーズの様子をきちんと書いてくれていたのは、1522年ボローニャ生まれのAldrovandiさん。この人自体すごくて、6才で親に死に別れた後、お金持ちの司祭の給仕から、勉強をしてお医者さんになり、さらには植物学や自然史を研究して、大きな本を何冊も書いた人です。この人は、ボロニーズについてとっても良く知っていたようで、その本の中で、ボロニーズについて書いているのです。それによると、ボロニーズは当時、とっても人気がある犬で、高価で400イタリアリラ(え〜!どの位の価値なんでしょう?当時の400イタリアリラって、今の日本円にするといくらぐらいのことなのでしょう?お分かりになる方があったら、ぜひBBSで教えてくださ〜い。)くらいしたそうです。そして、ボローニャだけでなく、イタリアの多くの町で飼われるようになっていました。面白いのは、当時ボロニーズが番犬としても高く評価されており、体の小ささにもかかわらず、凶暴で怒りっぽい犬と考えられていたようなのです。Aldrovandiさんは、このような見方に反対で、これはただ甘やかしてそのようにしてしまったので、ボロニーズは、大人しくて貴族的な犬だと書いているそうです。
この大人しくて、貴族的な、ボロニーズの本来の持ち味が生かされるためには、ブリーディングのあり方、環境や、小さい頃の経験や環境、しつけが貴重なものなのだな〜と、改めて思いました。

5.雑学ボロニーズの歴史、実は、自分で少しずつ勉強したいと思って、本を読んでいます。そして、折角ですから、面白いな〜!と思ったことを日記でご紹介で〜す。
さてさて、イタリアで愛されてきたボロニーズ、イタリアの次に行った国はどこでしょう?ピッ、ピッ、ピッ、ピ〜ン。実は(なんてご存知の方も多いのかもしれませんが)ポーランドです。理由は1500年代のポーランドの王様Sigismus一世の奥さんが、イタリアのミラノ出身で、この王妃がイタリアのルネッサンスの文化をポーランドに取り入れることに熱心な人で、さらには、ボロニーズを迎えて、愛情を注ぎ、イタリアを思い出す手がかりとしていたそうなのです。
ボロニーズは1600年代にはイギリスに伝わり、1700年代には、フランスに伝えられたようです。Flipponiという人が、ボロニーズをパリに運ぶことを専門にしていて、木箱に入れたボロニーズをラバの背中に縛り付けてパリに運んだそうです。Flipponiは、ルイ14世(昔世界史で習った記憶がありますよね。確か「太陽王」でしたっけ...)が、ボロニーズを気に入って、たくさんベルサイユ宮殿で飼っていたそうなのです。そして、Flipponiが運んでいってルイ14世が飼わなかったボロニーズは、他の貴族たちが争って迎えたということです。
こうやって見ていくと、ボロニーズがだんだんと世界に羽ばたいていく様子が分かって、ワクワクしてきます。そうやって、日本にもやってきたんですものね〜。本当に愛おしい存在です。

6.雑学ボロニーズの歴史も第6弾となりました。今日は、ボロニーズがさらにヨーロッパに広まって行く(と言ってもごく限られた一握りの人たちに愛されていたのですが...)、歴史を見ていきま〜す。
ポーランド、イギリス、フランスと王たちに愛されたボロニーズは、次にロシアに旅することとなりました。ここでも、昔の世界史で習ったような名前が出てきます。ボロニーズを愛したのは、大帝とも呼ばれたエカチェリーナ2世。もともとポーランドの貴族の娘で、そこでボロニーズと出会っていたのかもしれません。夫は気弱で愚か者、と言われており、むしろボロニーズを愛して、一緒に寝ていたようであります。
さて、読んでいる文献で、「おそらく最も熱狂的なボロニーズのファン」と言われているのは、オーストリア大公でであったマリア・テレジア(おっと、これも有名人!)です。愛していたボロニーズが死んでしまった時、それを剥製にして、永遠に忘れられないようにしようとしたというのです。この剥製が、今もウィーンの自然史博物館にあるそうです。(見に行きたいですね〜。○○年前に私がボロニーズに出会っていたらすぐ近くの国で勉強していたのできっと飛んで見に行ったと思うのです(^_^)。あっ。そういえば隣街の大学にも行っていたのに〜。もったいないことをしました(>_<)。これからこちらの方に出かけられる予定のある方は是非この博物館でボロニーズを見ていらしてお話し聞かせてください!!)
次にボロニーズが伝えられたのは、ボロニーズにとってイタリアと並んで大切な国となったベルギーです。ベルギーでボロニーズが愛されるようになったのには、マリア・テレジアの影響が大きかったというのです。外国人の支配者としては、ただひとりベルギーで愛された人物で、その支配が終わった後も、ベルギーの人々は、ボロニーズを大切に支えていったというのです。
このベルギーの人々の存在が、この後迎える、ボロニーズ絶滅の危機を救ったのでした。
そのお話は、また明日....。

7.雑学ボロニーズの歴史、part7で〜す。
 これまでのボロニーズの歴史で、最大の危機、それは第二次世界大戦でした。それは、ボロニーズだけでなく、ヨーロッパの犬たちみんなにとっての危機だったでしょう。
これまでの戦争とは違って、ヨーロッパ全体がこの戦争に巻き込まれ、その多くの国々が戦場になりました。ブリーディングどころではない時代だったでしょう。そのため、ボロニーズもほとんど絶滅してしまったのです。その時に、イタリアとベルギーのブリーダーたちが協力して、このボロニーズという犬種を守り、ほとんど絶滅といった状況から繁栄させていったのです。この時の、イタリアとベルギーのブリーダーたちの努力と活躍がなければ、今、私たちがこのボロニーズという犬種と出会うことが出来なかったということを思うと、本当に感謝ですよね。

8.雑学ボロニーズの歴史も、今日のpart8で、最終回です。
BertとDorothyというGoodale夫妻は、ボロニーズと同じビションの仲間であるハバニーズの普及に熱心なブリーダーさんでした。このハバニーズのための働きを通して、ボロニーズについてもよく知っておられたそうです。参考にした本の著者が、ハバニーズについてインタビューした時に、興奮しながら、ヨーロッパのボロニーズのブリーダーさんと連絡をつけて、ボロニーズの子犬を迎えるのだと言っていたそうです。そして1987年に最初のボロニーズの子犬がアメリカに輸入されたのです。(え〜っ!わずか19年前ですね〜。)
このGoodale夫妻や、ボロニーズを愛し、飼うようになった人々が、すぐにアメリカのボロニーズの血統登録帳(studbook)を維持するアメリカボロニーズクラブ(the Bolognese Club of America)を設立したということでした。
アメリカにボロニーズが入ったのが、こんなに最近のことであったことに、ビックリでした。
ボロニーズの血統登録帳をアメリカボロニーズクラブが管理し、維持・更新しているというのも興味深いですよね。「血統登録帳」ってどんなものなのでしょう。クラブのメンバーは、それを参照することができるのでしょうか?どなたかご存知の方がおられたら教えてくださ〜い。
ひとつの犬種を愛し、大切にしようとする時に、アメリカではボロニーズクラブが設立され、そこで血統登録帳を維持していた、それをそのまま日本で行うことは難しいのでしょうが、学ぶべきこともあるのかな〜、と思いました。

日本に最初に来たボロニーズの子は、何年にどこに来たのでしょう。日本のボロニーズの歴史を、どなたかまとめて教えてくださると、本当にうれしいな〜と思います。


ボロニーズ専門エルピス犬舎


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